カンナのおばさん(イエソド考)
~ 書いているうちにすごく長くなってしまいました。最後まで読んで頂けると嬉しいです。~
ここのところ、家の近くの中学校(私の母校)の校庭の、道路から見える位置に、赤いカンナがずらりと並んで咲いているのが見える。
薔薇を育て、ハーブやら宿根草やらをあれこれ育てている私が唯一苦手な花、苦手な植物。それがカンナだ。
この年齢になった今も尚、見ただけで私の脳は拒否反応を示す。
「うわー、カンナだ。。。」と。
いつ頃までだったか記憶は定かではないけれど、たしか須賀川市のかつての図書館の花壇に毎年咲いていて、図書館の辺りを通るときや図書館に行くときはそれを見ないようにして通っていたものだ。
「カンナのおばさんがいるから近寄ってはならない」と、私の脳が私の全神経に指令を出すのだ。
見ない、近づかない。それが一番なのだと。
しかし、図書館の花壇にカンナが咲いていたという記憶は、もしかしたらそれは私のなかで「本(図書館)」と「カンナ」が勝手に結びついた、後づけの記憶の可能性もある。
今となっては確かめようもないが、時として脳は実際にあったことではない記憶を記憶として構築することもあるから、図書館にカンナが咲いていたという私の記憶はあてにならない。
そう。
いつ頃だったのか、何に掲載されていたのか、記憶がはっきりとしていないのだが、子どもの頃に読んだ「カンナのおばさん」というタイトル(だったと思う)童話があったのだ。
単体の本ではなく、児童向けの雑誌かなにかに載っていたような気もする。
時期としては私が小学二年生くらいの頃であろうか。これも定かではないけれども。
内容も今となっては覚えていない。
けれども、子どもの頃に読んだそれは、私にとってとてもとても、怖かったのだ。
最近、冒頭に書いた近所の中学校の校庭に咲くカンナを見て、随分と久しく見ていなかったな、と思った。
私の「カンナ嫌い」が、私の人生のなかからカンナという植物を排除したかのように、本当に随分と長いこと、カンナを見ていなかった気がした。
否、カンナを見たとしても、一過性の場合にはすぐに(カンナを)見たことを忘れるふうに、私の脳がこれまで長いこと働いてきたのかもしれない。
それなのに、ここ最近はほぼ毎日通る中学校の校庭のそれを目にするものだから、私の脳も「はいはい、カンナね。(記憶から)消去、消去~」と出来ずにいるのだろうか。きっと、多分、そうだ。笑
カバラの生命の木というものがある。
真ん中の上下に伸びる柱のセフィラ(球)は上からケテル、(ダァト)、ティファレト、イエソド、そしてマルクト。
※私の愛猫マルクトの名はここから。ちなみにかつてケテルと名付けた子もいたけれど、縁あって和歌山に幸せな里子としてもらわれていきました。
幼少期の頃の記憶も何もかもーーーそれは大人になって以降もーーー、私たちのあらゆる体験や体験から生じた感情などは、潜在意識のなかに畳み込まれ、刷り込まれる。
例えばそれは親や先生など周囲の人から言われた言葉やら、友だちに言われた言葉、過去の辛い恋愛の記憶にはじまり、何かから感じた恐怖や嫌悪したものごとなども全て漏れなく潜在意識に刷り込まれてゆく。
もちろん、悪いことばかりではない。善い体験から得た記憶や感情もそこには入ってゆく。
親や周囲から批判され続けたり、「こうしなくてはならない」「こうあらねばならない」と言った言葉を聞かされて過ごしてきた人々は、どこかで萎縮してしまったり、時には周囲の人間にも同じ言葉を浴びせてしまうこととなるのは、自身の潜在意識にそういった過去に自分が聞いたことのある他者の信念が刷り込まれているからなのだ。
そして、その逆も然りで、善い言葉や「自由でいいんだよ」と言った言葉を潜在意識に刷り込まれている人は、人生のさまざまなシーンでそれを潜在意識の中から引っ張り出してくるのがとてもうまい。そして彼らは周囲の人にもまた、相手の自由や自由意志を尊重するような言葉をかけることができるようになる。
そういう意味では、昨日書いた記事(こちら)の、「自由でいいんだよ。もっと自由に生きるんだ」という、私へのSさんの言葉は、私の潜在意識にかなり善い影響を与えたと言える。
話をカバラの生命の木に戻そう。
生命の木とは、私たちの個の肉体に喩えることもできるし、思考の機序に喩えることもできる。私たちの人生の旅路に喩えることもできるし、我々人類の壮大な旅路にもまた、喩えることができる。
人生の、人類の、となると、なんだか壮大すぎてよく分からないかもしれないので、私たちの思考の機序について分かりやすい(かもしれない)例を挙げよう。
その前に肝心でシンプルな解説を書いておくとーーー本当は上記のイラストの10のセフィラを総括したうえで全てが成り立つのだが、ここでは真ん中の柱の4つのセフィラだけで解説するーーー、一番上のケテルのさらに上(何も無いが)には宇宙(天界)がある。
宇宙(天界)には全ての要素が含まれており、私たちのもとへどの瞬間も、誰に対しても、分け隔てなく流れている。
それが自分のケテルに流れ、ティファレトの流れ、イエソド、そしてマルクトへと流れる。
私たちが認識できる具現化が起こるのが、一番下にあるマルクトだ。
そしてそのひとつ上に、イエソドがある。
先ほど述べた潜在意識。これが生命の木に於いては、イエソドに対応する。
すべての要素ーーー繰り返すが、誰に対しても分け隔てなく流れているーーーが真ん中の柱をつたって降りてきて、私たち各々がそれらを受け取るという具現化がマルクトで起こるそのひとつ前、ひとつ上に、潜在意識を示すイエソドがあるのだ。
ここまで読んで、察しのいい方ならお気づきと思う。
そう。潜在意識のイエソドを通って、必ずマルクトでの具現化が起こるのだ。
シンプルな分かりやすい例が、いま幾つも私の頭の中に浮かんでいるが、ひとつ書いておくとするならば、何年か前に芸能人の女性が、朝、仕事に向かう途中、飲酒運転のうえひき逃げをしたという事件があったかと思う。
不幸中の幸いで、車にはねられた方は軽症で済んだものの、そのニュースは芸能人の方が起こしたひき逃げ事件というだけでなく、彼女の過去の境遇に照らし合わせて「なぜ?どうして?」という疑問を抱いた人々が多かったかと思う。
それは、彼女のごきょうだいが過去に交通事故で亡くなられており、彼女自身その経験ゆえだろうが、交通安全を呼びかける活動にも積極的に参加していたからだ。
イエソドには全ての体験、経験、記憶、そこから派生した思いなど、全てが畳み込まれている。
そこを通ってのみ、マルクトに於いて具現化が起こる。
これを所謂、自己啓発系やスピ系では、「引き寄せの法則」と呼ぶ。
イエソドのなかのどれが影響をしてマルクトでどんな具現化を起こすのか。
それを私たちは人生を通して、さまざまなかたちで体験してゆく。
マーフィーの法則にも、これは当てはめることができるけれども、長くなったのでまたそれについては次回以降に。
さて。そのようなわけで、私は「カンナのおばさん」と、どのように対峙したらよいのだろうか?
いっそのこと来年はカンナを庭に植えてみようか。
カンナを直視してみて、なんらかの気づきを受け取るかもしれないから。
そんなことを考えながら、今日も中学校の校庭のカンナを横目に、あそこを通ろうと思う。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
余談:この記事を書き終わって、本記事への差し込み用カンナの写真をiPhoneで探していたら、(偽の)「あなたのiPhoneがハッキングされています!」という表示が出たので、載せません。笑
カンナと対峙します。退治じゃなくてね。
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